視覚的な構造を耳が聞き取ることができるとはかぎらない。時間の流れの中で展開されるという意味で、小説は音楽に似ている。いったん演奏がはじまってしまったら流れにそって最後まで聴くしかない音楽と違って、小説はすでに読んだ前に何度も戻っていくことができるけれど、そういう努力をしても絵画のような視覚的な一挙性は得られない。
前回引用した箇所でブーレーズが、曲の全体的な眺望は仮想的にしか得られない(この「眺望」というのも視覚に依存した言葉だ)と言っていたが、小説の筋や仕組みや事件の関連やそういことを読者は、あくまでも仮想的な次元でしか知ることができない(前回の引用でブーレーズは「仮想」とほぼ同じ意味で「想像」「回顧」という言葉も使っている)。
(…)意図的に物語を構成する諸要素をずらして繋いだり、予測される展開を外したり、遅延させたりして物語を無効にしようという試みは幾らでもあったし、これからもあるでしょう。なしで記述を展開できるなら、物語はなしでも全然構いません。ただし、そうした試みに意味があるのはそうでなければ不可能な記述が展開されるからです。
と言って、物語は必要ない。が結論ではありません。物語らしい物語を必要としない記述や、意図しない物語性を排除してはじめて成り立つ記述の運動もある、ということです。同様に、物語らしい物語においてこそ可能になる記述も、当然、あります。とすれば、物語性の高低は必ずしも問題ではなく、展開される記述によって決定される問題だ、と言えるでしょう。
(…)逃げるということは――ただ学校から逃げることばかりを意味したのではない。なによりもまず、自分自身から逃げることを意味したのだ。アア、自分自身から逃げること、ピンコによって作りあげられたこの洟ったれ小僧の自分から逃げること、洟ったれを捨てさって、おれがそうであった男に戻ること! しかし、自分がいま現にそうであるものから、どうやって逃げたらいいのか? どこに手がかりが、抵抗の足がかりがあるのか? われわれの形は、われわれを通して内に入りこみ、中からもまた外からもわれわれを規定し、制約する。もしもたとえ一瞬にしろ現実が権利を取りもどしたとしたら、おれの状況のこの非現実的な荒唐無稽さはだれの目にも明々白々となり、みんながいっせいに叫ぶにちがいない――「こんなところでいったいこの男はなにをしているのだ?」と。これはもう確かなことだったが、しかし、奇矯なことが全般に広がり満ちみちているとき、その前にあっては、おれ一人の場合の荒唐無稽さなど、目にもたたずに、消えてしまったのだ。アア、一つでもいいから歪みねじれていない顔――そのそばでおれが自分の顔の醜い歪みを感じられるような顔が見たい。だが、まわりには、ただもう関節のはずれたような、火のしをかけられたような、裏返しにされたような顔しか見えず、そして、そこにおれのが、歪んだ鏡に映りでもしたようにして、映しだされているだけだった。しかも、その鏡に移しだされた現実はおれをつかんで、放そうとしなかったのだ!
(…)おれの体には統一がない。部分的にはそこここがどうもまだ子供のものだ。おれの頭はおれのふくらはぎを嘲弄揶揄し、ふくらはぎはふくらはぎで頭を笑う。指は心臓を、心臓は脳をあからさまにからかい、鼻は鼻で目を、目は目で鼻を大声で笑って、腹をかかえる――こうして、すべての部分が、手当たりしだいになんでも槍玉にあげてゆく激しい総体的な嘲弄の雰囲気のうちで、いとも野蛮に暴力をふるいあっているのだ。
フィアルタの春は曇っていて、うっとうしい。故に、すべてが灰色に煙っています。最初の段落の風景をよく覚えておいて下さい。特に、遠くに見える「青白いかすかな光に照らされた聖ゲオルギー山のおぼろな輪郭」(沼野充義訳、一四六頁)がポイントです。それから色です。土産物屋の紫水晶と、海のくすんだオリーヴ色。どちらも薄暗い灰色の中に溶け込んでいます。この小説に、鮮やかな色は他に三つしか出て来ません。赤と、黄色と、最後の方に登場する菫の暗い色です。赤は血の色ですし、黄色は事故車の色です。菫の暗い色は、最初に登場する紫水晶の色から来ており、フィアルタという「名前の響きのくぼ地に、あらゆる花のうちでも一番ひどく踏みしだかれてきた小さく暗い花」(一四七頁)の色でもあり、この小説の中で明度を落として行く唯一の色です。
光線は極めて意識的に計算されており、色彩設計もほぼ完璧に為されています。色数を使う時のナボコフは煩いくらいなのですが(『ヴェイン姉妹』の色使いは、読む分には鮮やかで美しいのですが、実際に描かれたら、玄人はだしの素人水彩画家みたい、ということになるでしょう)、ここでは極めて意識的に絞り込んでいることがお分かりでしょう。あまりにも意味の明白な赤は措くとすれば、補色関係にある黄色と紫であり、ニーナのスカーフと菫の花束に意識的に配置されます。イメージの連鎖においては、菫の色は土産物屋の紫水晶と、フィアルタという地名に繋がり、明度を落としきった状態では、ニーナが主人公に遊び半分のキスをしたロシアの真冬の夜に行き着きます。
さて、散歩と昼食と回想の間も、灰色のフィアルタは少しずつ変貌して行きます。テーブルには鮮やかな真紅の飲み物の入った大きなコップが載っていて、テーブルクロスに楕円形の照り返しを投げかけている。
(一七二頁)石段を登りきると、でこぼこの空き地に出た。ここからは優しい灰色の聖ゲオルギー山が見え、その脇のほうに動物の骨のように白い斑点がいくつも集まっているのがわかる(集落か何かだろう)。山裾を迂回して目に見えない列車の吐く煙だけが走って行き、突然、消えてしまった。さらにその下、家々の入り乱れた屋根の向こうには、イトスギがただ一本立っていて、遠くからだと水彩用の絵筆のそっくり返った黒い先端のように見える。
(一七二頁)目に見えて天候は好転し、辺りは明るくなっていきます。物語上の頂点、告白と撤回が行われます。後は全引用してみましょう。
「冗談だよ、冗談」慌ててぼくは大声で言いながら、横からニーナの右胸の下あたりまで手を回して軽く抱き寄せた。どこからともなく彼女の手にはぎっしりと花の詰まった花束が現れた。無欲に香りを放つ、暗い色合いの小ぶりなスミレ(フィアルタ)だった。そしてホテルへの帰途につく前に、ぼくたちは石造りの手すりの前で、しばらく立ち止まったが、すべては以前と同じように絶望的だった。しかし、石は身体のように温かく、ぼくはそれまで目にしていながら理解していなかったことを突然理解したのだった。どうしてさきほど銀紙があれほどぎらぎら輝いていたか。どうしてコップの照り返しがテーブルクロスの上で震えていたか。どうして海がちらちら光っていたのか。
(一七三頁)花束だけを、明るくなった光景にくっきりと暗く浮かび上がらせて、さて、次です。
フィアルタの上の白い空はいつの間にか日の光に満たされてゆき、いまや空一面にくまなく陽光が行き渡っていたのだ。そしてこの白い輝きはますます、ますます広がっていき、すべてはその中に溶け、すべては消えていき、気がつくとぼくはもうミラノの駅に立って手には新聞を持ち、その新聞を読んで、プラタナスの木陰に見かけたあの黄色い自動車がフィアルタ郊外で巡回サーカス団のトラックに全速力で突っ込んだことを知ったのだが、そんな交通事故に遭ってもフェルナンドとその友だちのセギュール、あの不死身の古狸ども、運命の火トカゲ(サラマンダー)ども、幸福の龍(バジリスク)どもは鱗が局部的に一時損傷しただけで済み、他方、ニーナはだいぶ前から彼らの真似を献身的にしてきたというのに、結局は普通の死すべき人間でしかなかった。
(一七三―七四頁)長いエンディングですが、この滑らかな記述の中で、露出はどんどん上がり、被写体は白く霞み、一番暗い花束の影だけが最後まで残るものの、それも消えてしまって、ミラノの駅にフェイドインする訳です。映画でも白くフェイドアウトするのは変則的なやり方ですが、小説で同じことを、それもこれほど効果的にやってのけた作例はないでしょう。感傷的な恋愛譚を口実に、回想や意地の悪いポルトレを交え、天候と色彩を操りながら着々と準備をして、最後のフェイドアウト/フェイドインに持って行く。作品は総体として眺めなければならないものですが、この大技こそ、『フィアルタの春』という凡庸な筋書きを持つ非凡な作品のニュアンスと動きを決定しているのは、間違いのないところです。