僕がイサキさんの家で毎日のように観た、パゾリーニという男の映像作品、そして彼の実際の生涯というものの奇矯な相関には、なんだか次元を捩れさすような愛憎の屈折、より正しく「不可能の愛」と名づけるべきものの、そのありえない具現を見る。
パゾリーニの映画は、パゾリーニ自身の欲望の充足のために作られている。完成された映画は映画としての普遍性を獲得するだろうが、僕が思うに、パゾリーニの「行為」とは、おそらく映画の撮影、それを「視る」、あるいは「撮る」瞬間において生起し、同時に完了するものである。他ならぬ彼のカメラからの熱い凝視、その能動的・嗜虐的な「視線自体」が、夥しい少年少女を存分に陵辱し、存分に殺戮し、捌いて、血と糞尿のソースごと存分に食すのだ。そして、そこで「視線」がとらえたものの「記録」、つまり、撮影後も編輯された「映画」という名の「時間の剥製」とは、パゾリーニにとって字義どおり単に「記録」であり、また「記念」なのであって、もはや純然たる「行為」ではありえない。それは彼によって「かつて視られたもの」、「視られたこと」である。そこでは、パゾリーニのあの「行為」の実存的な一回性は既に失われている。それは、過去、そこに真に現前してであろう「視ることの生・滅」の一刹那の、出涸した二番煎じ、模倣であり反芻であるにすぎない。……
※この両日の記述には、ぜひ私から注釈を加えさせてもらいたい。パゾリーニは最後の映画を撮り了えたあと、自身のカメラによって視姦したばかりの実際の少年俳優を、肉慾の対象として現実に誘惑し、結果、少年に撲殺され、その生涯を終えるのだ。
これは篤の言うように、極めて奇妙な、たしかに不可能な「次元の捩れ」である。
なぜなら、彼は、パゾリーニは、驚くべきことに、彼自身の「作中人物の手によって殺められた」のであるから……。一方的に視られ、犯されたところの、作中人物である少年は、カメラのレンズを乗り越え、この不可能な逆行・遡及の果てに、視る主体であった神なるパゾリーニへの復讐を果たし、ついにこれを弑殺したのである。
かくして客体から主体への奇蹟の復讐は完遂された。……だが、私は、こう思うのだ。おそらくパゾリーニは、それで十分に本望であっただろうと。
愛する少年と、視る自分とを隔絶させていたレンズの壁が、あちら側から破壊され、光り輝く愛の対象がこちらへ向かってくる無遠慮に、いとおしい殺意さえ携え、土足で敷居を越えてくる。それがどうして恐怖たりえようか。これにまさる天祐などいったいどこにあるというのか。……さても、パゾリーニとは稀にみる幸福な男であった。
—諏訪哲史.(2009).ロンバルディア遠景.講談社.244 - 246